2014年1月24日金曜日

伊福部昭 生誕100年へのメッセージ(5)芥川眞澄

伊福部昭 生誕100年へのメッセージ第5弾は!

伊福部昭門下の長兄として様々に活躍した芥川也寸志夫人の
芥川眞澄氏です!

伊福部先生の思い出  芥川眞澄

昭和21年、軍楽隊から東京音楽学校に戻った芥川也寸志は、学校で伊福部先生に初めてお会いしてお話しを聞いたその日に、当時、日光にお住まいの先生のお宅まで押しかけて、そのまま三日三晩居候を決め込んでお話しの続きを伺い、その場で弟子にしていただいた、という話は有名になっていますが、戦後の食糧難の時期に、奥様には大変お世話をおかけした、と繰り返し申しておりました。

1987年11月1日、先生ご夫妻と私たち夫婦とで、上海で行われる「日本交響作品展」のために、9日間の旅に出かけたのが、私にとっての大切な思い出となっています。
上海交響楽団と芥川の指揮で、先生の「シンフォニア・タプカーラ」早坂文雄「右方の舞と左方の舞」芥川「トリプティーク」というプログラムだったと思います。
7、8日の2日間、上海音楽院のホールでの演奏会でしたが、連日のリハーサルの間には、上海市内の骨董店を見て廻ったり、豫園の観光に出かけたり、とても美味しい北京ダックを繰り返し食べに出かけたり、かなり寒い時期ではありましたが、本当に楽しい旅行でした。
先生は黒いカシミヤのコートと黒いソフト帽に蝶タイ、奥様も黒いコートに黒いレースの前垂れのついた帽子、それに長身の芥川ですから、上海の古い町並みを歩いていても、かなり目だっているようでした。

演奏会には、作曲家の呉 祖強氏、朱 践耳氏、指揮者の陳 変陽氏など、多くの重鎮もお見えになり、ご夫妻にもとても喜んでいただき、「これで先生への恩返しが、少しは出来たかな」と、芥川も嬉しそうな顔をしていました。

演奏会の後も、芥川は上海音楽コンクールの審査員として残ったために、私ひとりが先生ご夫妻とご一緒に東京まで戻ることになり、緊張の続く空の旅でありました。

芥川眞澄
東京生まれ。東京藝術大学大学院・作曲修士課程終了。在学中より、TV・レコード・ステージ等で作曲とエレクトーンの演奏活動を始め、毎年のヨーロッパ各地の演奏旅行やリサイタル、オーケストラとの共演など、現代音楽からジャズまでの幅広い音楽活動を展開し、注目を集める。
その後、作曲家・芥川也寸志との結婚、育児での音楽活動休止期間があるが、映画音楽の共同製作など、作、編曲を中心に活動を再開。主な作品は「オルガンコンチェルト」、合唱曲「山のまつり」(NHK合唱コンクール課題曲)童謡「ののさまいくつ」など。
毎日音楽コンクール管弦楽部門三位(1964年)、エレクトーンコンクール作曲(1964年)、演奏各部門(1965年)でそれぞれ一位受賞。