2014年1月27日月曜日

伊福部昭 生誕100年へのメッセージ(8)邦楽ジャーナル編集長 田中隆文

伊福部昭生誕百年へのメッセージ第八弾!

邦楽界にこの人あり! 邦楽ジャーナルの編集長 田中隆文さんです!

私の伊福部昭 邦楽ジャーナル編集長 田中隆文

 NHKラジオ「現代音楽の時間」で野坂惠子奏する箏の音を聴き感動した。翌日、レコード店で「日本」をキーワードにLPを探す。「日本音楽集団」「日本狂詩曲」がひっかかった。両方とも私にとっては衝撃の世界だった。こんな世界があろうとは! 18歳のとき、1973年だったと思う。以来、何百回とそれを聞いたことか。
 関西の大学で邦楽部に入部した。関西学生邦楽連盟で機関誌を作ることになり、邦楽の著名演奏家に寄稿してもらおうと、委員長としてお願いに上京した。山本邦山氏、野坂惠子氏…そして私の中では神様だった伊福部昭氏にも公衆電話からお願いした。
 「関邦連の機関誌に寄稿をお願いしたいのですが」
 「いま、忙しくて申訳ありませんが…」
 「ちょ、ちょっと待ってください。ボク、先生のファンなんです。お会いしたいんです」
 「そういうことならどうぞ。いつ?」
 「今から」
 尾山台のお宅に伺った。カチコチにかたまった私をあたたかく迎え入れてくださった。『ラウダ・コンチェルタータ』を作曲しているところだと、ピアノの前に置かれている楽譜を見せてくれた。1976年初冬のことだ。
 氏自らお茶を淹れてくださり、夢のような時間が過ぎてゆく。1時間だったのか、2時間だったのか、長く感じられた。
 「ボク、『日本狂詩曲』で奮えるほど感動しました。でも、実は小さい頃から『ゴジラ』で先生の音楽聴いていたんです!」自分の熱烈伊福部ファンぶりを知ってもらいたいばかりの意味のない質問。だが、氏はすべてに丁寧に返してくれた。「私も若い頃はなんでもしなければならなかったからねえ」
 「ボクは『リトミカ・オスティナータ』が一番好きで、スコアも買って頭に入っています。」「ギターは『箜篌歌』と『踏歌』を暗譜して弾けます」何をバカみたいに自慢してるんだと思いながらも口をついて出る言葉。それにも、「そう、ありがとう。じゃあ…」と立ち上がり、棚から『ギターのためのトッカータ』の公刊譜を出してきて、表紙にイタリア語でサインをしてくれた。
 今から考えると、私の行動、言動はむちゃくちゃだ。こんな音大生でもないボケ学生にも貴重な時間を割いてくれた。誰に対してでもそうなのだろう。人の大きさを見る。
 お会いしていただいたとき、氏が東京音大の学長で、日本音楽集団はそこに練習場を持ち、集団の三木稔や芥川也寸志、黛敏郎といった著名作曲家がこぞって伊福部門下であることなぞ、知る由もなかった。私にとっては、私が探し出して来た伊福部昭だった。恥ずかしいと思う。でも、それでいいとも思う。私にとっては今でも音楽の神様に変わりはなく、あくまで「私の伊福部昭」なのだ。

写真(C)ヒダキトモコ
http://www.hogaku.com/tanaka.html
有限会社邦楽ジャーナル代表取締役・編集長。邦楽アソシエーション代表。
1955年生まれ。
1987年月刊誌「邦楽ジャーナル」を創刊。
1999〜2005年、日本初の邦楽専門ライブハウス「邦楽ジャーナル倶楽部・和音」開業。
2001〜2010年邦楽界最大規模の総合イベント「日本の音フェスティバル」企画制作(JASRAC主催)。
2004〜2007年津軽三味線と太鼓の月刊情報誌「バチバチ」発行。
2006〜2010年NYにおける世界最大規模の芸術見本市「APAP」関連公演として「Hogaku:New Sounds of Japan」プロデュース、同時に講演(国際交流基金主催)。
2006年〜邦楽アソシエーションを創設して邦楽器業界月刊紙「和楽器文化」発行。
2010年「宇宙箏」を小川楽器と製作、山崎直子宇宙飛行士が宇宙ステーションで演奏。
2011年〜野坂操壽・沢井一恵「箏―ふたりのマエストロ」コンサート全国ツアー企画制作。
2012年5月京都で国際尺八コンクール主催。

理事職
和文化教育研究交流協会常任理事
全国邦楽器商工業組合連合会常任理事
東京和楽器製造卸組合理事
NPO賢順記念全国箏曲祭振興会理事
NPO日本の音振興普及協会「楽音会」副理事長
NPO全国邦楽合奏協会副理事長
一般社団法人波の会日本歌曲振興会名誉会員
(2013年5月現在)